派遣ライフ☆企画課日誌

派遣ですが職場愛が深すぎる私の刺激的な日常を、独自の視点でつづっています!

派遣と社員との間の一線を踏んで苦しんだ人の話

f:id:goominje:20200830024859p:plain

派遣社員と社員さんの間には、見えない一線がある。

これは誰でもわかっていること。

どんなに仲良くなっても、社員は社員、派遣は派遣。「同期」とか「同僚」と呼ばれることはない。

どんなに優秀で仕事ができても派遣は派遣。昇進も査定も特別賞与もない。

 

でも、そんなに悪いもんじゃないと私は思っている。

それを踏まえて働いている限り、居心地のいい職場環境を維持することは可能だ。

 

最初はわかっている、みんな。そのうえで派遣の道を選んでいるのだから。

だけど、私たちも人間だし、承認欲求というものもある。仕事に達成感を感じるとうれしいし、褒められると「やったー!」って感じになるし、次はもっとこうして…!なんていう向上心だってある。

だから時々感じてしまう、

「なんであんな仕事でほめられてんの?」とか、

「あんなの誰でもできるわー」とか、

「私の方が何倍もいいものできるのになー」とか、

そんな思いにとらわれてしまわないよう、気を付けなければならない。

社員さんをうらやましがったり、対抗心を持ったりすることは、人間としてまあ当たり前のことと認識しつつ、それは心の奥の小さな泉の、奥深くに沈めておかなくてはならない。

派遣社員と社員さんの間の一線は、太く、広く、そして深~い線なのだ。

そしてその一線は、派遣社員である限りけっして変わることはない。

 

だからこそ、時々虚しさを感じることもあるだろう。

何のためにこんなことやっているんだろう、とか、自分のやっていることって、何か形に残ることあるだろうか、誰かの役にたっているだろうか、など、突然虚無感におそわれたり…。仕事ができる人ならなおさらそう感じるものなのかもしれない。

 

だがそれ以上に派遣社員を虚しくさせるもの、それは「恋愛感情」がからんできたとき。これはほんとに気を付けなければいけない。

 

半年前に突然辞めたM美さんを思い出す。

 

M美さんとは部署は違うが、共通の作業では良く顔を合わせており、そのうち帰る方向も同じであることがわかり、話も合って、自然に仲良くなった。

ランチ仲間となり、数人でいつもいっしょにお昼を食べていた。彼女の明るくて楽しい人柄は仲間内でも人気で、仕事の不満やストレスも、彼女の笑顔と豪快な笑い声で吹き飛んでしまうほどのハッピーオーラが魅力的だった。

 

私を独特のニックネームで呼び、仕事中に職場の小ネタをメールで送ってきたり、コピー機のトナーの発注忘れてた、と言ってうちの課のものを持って行ってしまったり、おテンバさんだけど、どこか憎めない、いつも元気印の女性。

 

そのM美さんが突然辞めることになった原因は、結局のところ”嫉妬心”ではなかったかと、私は思っている。

 

M美さんの職場は、こじんまりとしたアットホームな雰囲気の小さなオフィス。

当時は確か10人ちょっとしか人員のいない部署だったと思う。

職場内はみんな仲が良いことで有名だった。毎月レジャー用に積み立てをしていて、定期的に食事会やイベントを企画している。年に一回は旅行にも行っているとか。

派遣社員である彼女にもわけへだてなく声がかかり、M美さんは毎回そのイベントに参加していたという。飲み会などにいくたび、その時の写真を見せてくれたり、どんな話で盛り上がったのか、とても楽しそうに話していた。

彼女も居心地のいい職場を見つけた一人だと思っていた。

ところが実のところ、M美さんが毎回このイベントに参加するのには別の理由があった。その中に好きな人ができたからだった。

 

M美さんと話していると、毎回必ずその人の話になる。それで問いただしたところ、あっさり認めた。その男性社員、Nさんが気になっていると。

Nさんは、M美さんいわく仕事ができて優しくて、超イケメン。そして自分の一番の理解者である、というのだ。私はNさんとは話したことはないが、確かに仕事ができそう、優しそう、まあまあのイケメンではあると思う。M美さんもしゃべりたそうだったし、二人でいる時は必ず彼の話になった。

 

最初は、仕事でNさんのサポートにつくことになり、連日二人で打ち合わせを重ね、心血注いだその仕事はとてもうまくいき、彼は大きく評価されたらしい。それ以来、彼のM美さんに対する信頼は厚いものとなり、M美さんもそれに応えようとがんばってきた。M美さん曰く、彼のやりたいことは、もはや言葉を聞かなくても理解できるし、こちらの気持ちも伝わっている、その絆は他の誰よりも強い絶対的なもの、これからも彼をサポートし続け、自分の力で彼を押し上げ昇進させる、ということだった。

M美さんのNさんに対する気持ちは十分に伝わってきた。仕事面のことしか言っていなかったが、その瞳は間違いなく、恋する女性のものだった。

ただ、それって「絆」って言ってるけど、むこうも同じ気持ちなのかな。

彼女の秘めた思いなのか、妄想なのか、今一つわからない。

 

いや、その前に気になることがある。

既婚者なのだ。二人とも。お子さんもいる。

 

しかし、二人の仲がどこまでのものなのか、M美さんに確認することはできなかった。

既婚者であっても、派遣社員であっても、人を好きになることはあるだろうし、大人同士の二人を、私がとがめる気もないし、そこを踏み込んで聞くのは無粋かなと思ったのだ。

そこは、もうあまり触れずに、M美さんが楽しくお仕事できていればそれでいいかなと思うようにした。

 

彼女の様子がおかしくなったのは、今年の年明けの勤務がはじまってすぐの頃だった。

ランチのときも会話に参加せず、話しかけても上の空、スマホをにぎりしめてうつむくことが多くなった。みんなも心配していたが、何かいやなことでもあったのか、体調でもすぐれないだけなのか、とにかくしばらくそっとしておこうという方針を決めた。

だが、私には少し心当たりがあった。

去年の暮れあたり、M美さんの職場に、ある変化が起こったのだ。

 

Iさんという女性。黒髪のきれいな、デキる女風の社員さん。

理由はわからないが、しばらく休職していたIさんが復職してきたのだ。彼女の出現により、M美さんの職場の人物相関図はおおいに変化することとなった。

IさんはM美さんの意中の人Nさんの同期入社で、今の職場に異動してくる前も彼と同じ職場であり、古いつきあいらしい。Iさんが復職してきた初日、Nさんの喜びようは半端なかったそうだ。

「Iちゃん、またいっしょに働けるね。僕が全面的にサポートするからね。」

「Nくん、ありがとう。よろしくね。」

この話を私にするとき、M美さんは「トレンディドラマの第1話かよ」とつぶやいた。それがおもしろくて、つい笑ってしまったのだが、M美さんはにこりともせず真顔だった。

M美さんは休職していたIさんとは初対面だったが、最初から気に入らなかった、と言っている。特に何を言われたわけでもないが、M美さんはIさんがまぶしかったのではないかと思う。

Iさんは美人で、某国家資格を持つキャリアウーマンで、人当たりもよく感じのいい人だ。休職していなければ課長職くらいにはなっていたのではとも言われている。センスのいいブランドのスーツ、手入れの行き届いた長い髪、女性でも憧れるような存在に見えた。

一方、M美さんは、夫と2人の小学生の子供をもつ主婦で、天パーくりくりヘアがかわいいショートカット、オフィスカジュアルぎりぎりのラフなパンツスタイル。子供の世話してたらおしゃれする余裕なんかないよー、といつも笑っていたけど、そこが彼女らしい魅力の一つだと私は思っていた。

だから、Iさんと自分を比べることなどせず、ただM美さんらしく堂々としていればよかったのに、と思う。

 

Iさんが戻ってきてからのM美さんの職場では、ほぼIさん中心に仕事が組まれていったという。それにより、M美さんの出る幕はなくなってしまった。みんながIさんに注目し、自分の存在がかき消されたように感じたという。

今まであんなに仲良くやってきたのに、飲み会でもいつも大盛り上がりであんなに楽しかったのに、Iさん一人来たせいで、みんな変わってしまった、とM美さんは嘆く。

今までM美さんにまかされていた業務の重要な部分は、Iさんの担当になった。Nさんのパートナーも当然Iさんになった。

 

ある時、M美さんの職場に来客があり、M美さんはお茶の準備をしていたという。すると、Iさんがどこかからコーヒーをお盆にのせてやってきてお客様にだしたので、M美さんは準備したお茶はださずに席に戻った。その来客は部長の懇意にしている方で業界の有力者だったという。

翌日また来客があったが、退職したOBが手土産をもって立ち寄られたらしい。その時Iさんはコーヒーを持ってくることはなかったので、M美さんがお茶をだした。

どんなお客様であれ、着席して応対する場合はお茶出しをすることになっている。それは今までずっとM美さんの仕事だったのだ。しかし、Iさんが来てからというもの、部長の知人や大手企業の方など、Iさんにとって顔をつないでおきたい方や、自社の偉い方が同席するときに限り、Iさんがコーヒーをだすことがわかった。

Iさんは営業をしているのだ。自分を売り込みたい相手にコーヒーをだしがてら、ちゃっかり同席して雑談に参加したりしている。なかなかやり手らしい。M美さんはIさんをあざとい女”と呼んだ。

 

しばらくして、M美さんは同じフロアの女性社員さんから呼び出され、注意を受けたという。給湯室にM美さんの部署のものと思われるコーヒーカップのセットが置きっぱなしになっているので、すぐ片づけてほしいというのだ。その時、M美さんに頼まれ、私もいっしょに給湯室に行ってみた。すると、水切りかごの中には確かにコーヒーカップ、ソーサー等が洗ってふせられたまま山積みになっていた。何日も放置されているためか、カップの上にほこりがたまっており、使用するにはもう一度きれいに洗わないと気持ち悪い。

その様子を確認したM美さんは、そのまま給湯室を離れ、職場に戻ると言ってすたすたと歩きだした。

「私が洗ったやつじゃないから。」そう言って、M美さんは行ってしまった。

 

翌日気になって給湯室をのぞいてみたが、カップはまだそのままだった。

ほどなくしてM美さんが私のところにやってきた。やはり気になっているのだろう。

「あれ、私がやらないとだめなのかなぁ。」

私に問いかけてきた。私はなるべく軽く聞こえるように気を付けながら、

「う~ん、まあ今回は片づけといてあげたら?一回貸しってことでさ。まったくやんなっちゃうよね。うちもけっこうあるよ、やりっぱなしとか、出しっぱなしとかさ。」

というようなことを言った。

M美さんは、派遣だから、そういうのやらなきゃいけないのかなとは思う。でも、体が動かない。どうしてもあのカップをさわって洗う気になれない、と言った。

私はその頃から、M美さんの心の状態がひどく心配になっていた。笑顔も少なくなっていってたし、なにより仕事に支障をきたしだしていた。

 

Iさんとは私もすぐ挨拶する仲となり、休んでいた間にいろいろ変わったこととか教えてね、などと親し気に話しかけてきたりして気さくな社員さん風だったが、その行為自体が同じ職場の派遣社員であるM美さんをスルーしており、気のせいであってほしいと願いながらも、Iさんの悪意を感じたような気がしている。

IさんもやはりM美さんを意識していたのではないだろうか。

久々に職場に復帰したら、自分のいるべき場所に他の人がいた。しかも派遣社員だという。派遣に自分の職場をとられるわけにはいかない。自分の職場も、自分の相棒も取り戻したい、派遣なんかに大きな顔はさせない…Iさんがそんなふうに思ったとしても不思議ではない。それまでのM美さんの職場のM美さんに対する待遇は、同じ派遣仲間から見ても、そうとう高いものだったと思う。

M美ちゃんはいつも頑張ってくれてるからいいよ、と基本的に社員しか持てないデジタルIDも持っていたし、社員といっしょでないと入れない管理棟にも自分のIDで入れたし、自分名義のメールアドレスも許されていた。サーバーへのアクセス権も社員並みだったと聞いている。それらはまかされた業務上必要なものだったし、社員が承認したことであって、M美さんが不正に取得したものではないから、何も悪いことはないけど、それは奇跡的な高待遇で本来は私たちが受けられるものではなかったのだ。

Iさんからしたら、M美さんの存在はうとましいものだったに違いない。仲良くやってうまく派遣を”つかっていく”という選択肢もあっただろうが、かつての相棒を取り返すには、まずは「派遣は派遣だ」ということも思い知らせることから始めることにした、というのは私の勝手な想像に過ぎないのかもしれないが。

 

Iさんは美人だがけしてきつい感じではなく、やわらかい印象の癒し系の女性とお見受けする。だがその雰囲気とはうらはらに徹底的に私たちを”派遣扱い”する。言わなくてもわかってるのに、あえて口に出して「派遣さん」と呼ぶ。

 

「コーヒーは出しました。あとは派遣さん、片づけておいてくださいよ。洗っておいただけでもありがたく思ってほしい。本来派遣の仕事なんじゃないの?」

 

給湯室の山積みのコーヒーカップは、Iさんのそんなメッセージだ。それを感じ取ったからこそM美さんはコーヒーカップをさわることができなかった。

 

数日たってもあいかわらず給湯室のコーヒーカップはそのままで、M美さんが、またこないだの社員さんに呼び出されるんじゃないかと私は内心ヒヤヒヤしていた。

M美さんが無理だったら、私が洗って持って行ってあげるから、とM美さんに言いに行こうかと思っているとお昼休憩のチャイムがなり、休憩室に行くとちょうどM美さんもやってきたところだった。彼女の深刻そうな顔に不安がよぎり、コーヒーカップの件を切り出そうとすると、彼女から話し出した。

 

放置されたコーヒーカップの件を、職場の上司であるT室長に報告したらしい。

勝手に自分でコーヒーを出しておきながら、後片付けは途中で放棄し、結果、給湯室の利用者に迷惑をかけているIさんのおかげで自分が非難され、大変迷惑している。それ以外にも、普段からIさんは自分の頼んだ用事を最優先にするよう強要してくるし、取り扱いのない備品を調達するよう頼まれたり、なにか嫌がらせをされているように感じる。このままだと業務を継続するのは難しい、なんとかしてほしい…。

彼女は必死に訴えた。悩んだ挙句の決断だった。しかし、自分をかわいがってくれていたT室長ならきっと何か対処してくれるはず、例えばIさんをどこかに転属させるとか。そんなかすかな期待をもって、なんとか我慢して仕事するわーと、M美さんは小さく笑った。

 

M美さんの気持ちはよくわかる。楽しかったころがあるだけに、あの頃に戻りたいと願う気持ちは強いだろう。だが、どう考えてもM美さんの希望はかないそうにない。今までよくしてもらったと感謝しつつ、表面上だけでもIさんをたてて、派遣としての自分の居場所を維持することはできなかったか。そんなに簡単に退職をほのめかすようなことを上長に言うなんて、やはりその時のM美さんはどうかしていたとしか思えない。

 

Iさんがあきらかな悪意を持ってM美さんに嫌がらせをしていたとしても、それを訴える時には、私たちはそうとう注意しなければならない。会社側はそんなこと簡単に認めないし認めたくないのだ。確たる証拠がないと、単なる派遣社員の不平不満、愚痴、行き過ぎれば誹謗中傷ととらえられることになってしまう危険性があるのだ。

 

少し前からNさんが自分を避けるようになった、とM美さんは続けた。気のせいではないかと私は言ったが、間違いないと彼女は言った。それもIさんが来てからだから、自分が邪魔なのかもしれないけど、私そんなに迷惑かけてるのかね…、M美さんの表情は苦しげにみえた。

 

数日たったある日、M美さんが午後半休をとって早退したと聞いた。体調でもくずしたのかと、携帯にメールしてみた。そうすると意外な答えがかえってきた。

 

「今夜、時間あったら飲みにいかない?」

 

体調が悪いわけではなかったのねと少し安堵し、たまにはM美さんも憂さ晴らししたいのだろうと、お付き合いすることにした。

M美さんが予約しておいてくれた居酒屋でおちあうと、適当に何品か注文し、愚痴なら聞くよ、という体制を整えて、彼女の言葉を待った。

数分前まで笑顔を見せていたので私は油断してしまっていた。まさか彼女が急に泣き出すとは想像していなかったのだ。

 

M美さんの話によると、今朝出社すると机の上に「新しい席次表」という紙が1枚置いてあって、出社したら新しい席へ順次移動するようにとの簡単な指示が書いてあったという。ちょうど業務の切れ目できりがいいので、新しいグループ編成にするとのことだった。そして彼女にとって最悪の回答がそこにあった。

今までオフィス内のセンターにあったM美さんの席は、入り口付近の端っこの席に変更となっており、隣も向かい側も空席となっていた。彼女は完全にはじき出され、孤立した席に追いやられることになったのだ。代わってセンター付近に陣取ることになったのは、言うまでもないIさん。その隣にはNさん。

その時の彼女の失望感ははかりしれない。想像するだけでも胸が痛くなる。

 

M美さんは仕方なく机の中を整理し、端っこの席へと移動した。みじめな気持ちだったという。でも、途中からはもう何も考えず黙々と移動作業に徹し、それが終わると通常業務を開始したそうだ。

そうして半日過ぎお昼休憩間近になったとき、社員さんたちがきゃっきゃっと楽しげに話しているのが聞こえた。なんとなく聞き流しているうちに彼女は愕然とした。

待ち合わせ場所の相談をしている。

今度の週末、みんなで地ビールのおいしいお店で食事会をするらしいのだ。定例のイベント。しかし、M美さんは呼ばれていなかった。今まで毎回声かけてくれていたのに、それすら私を入れてくれないのか。どうしようもなく悲しくなり、M美さんはとっさにNさんに助けを求めた。


Nさん、なんとか言って。

M美さんを忘れてない?いつもどおり彼女も誘おうよ。

そう言ってほしかったM美さんは振り返り、Nさんを探した。Nさんは、その時Iさんの隣にいて、現地への行き方を説明していた。Nさんを見つめるM美さんの視線にようやくNさんは気づいたが、その瞬間表情を曇らせ、目をそらした、という。

 

終わった。

 

M美さんはそう思ったそうだ。

Nさんと心を通わせてきたあの日々はなんだったのか。

何のためにあんなに頑張ってきたのか。

こんなみじめな思いをするためじゃない。

違う、おかしい。それもこれもあの女、Iが来てから、全てがおかしくなった。

あの女のせいで、私は地獄に落ちる。

 

もうとてもその場にいるのは耐えがたくなり、逃げるように職場を後にしたのだそうだ。

 

そこまで一気に言うと、M美さんは大きなため息をつき、こぼれる涙をぬぐって、今度は一点を見つめてぶつぶつと小さな声で、呪いのような言葉、Iさんの悪口をつぶやき続けた。最後にいきなり声をあげて笑ったかと思うと、

「あの女にね、一つだけ勝ってるとこあるよ。私の方がいい大学でてるんだ!」

 

その時すでにM美さんは、治療が必要なくらい精神的に衰弱していたと思う。

食事もあまり取れなくなっていて、げっそりとやつれてしまっていた。

 

その日以降、M美さんは遅刻、早退、欠勤が目立つようになった。

Iさんはときどき私の課にきては必要な事務用品をいくつか物色したあと私に言った。

「うちの派遣、最近欠勤が多いのよね。いい加減にしてもらわないとほんと困るわ。」

M美さんを非難しつつ、私の反応をうかがっているようでもあった。M美さんから私が何か事情を聞いているとふんだのだろう。しかし、私はそんな素振りは見せず、

「そうですよねー。具合悪いんですかねー。」

と相づちをうつにとどめた。

 

朝、通勤中の電車の中で、M美さんからメールが届くことが何回かあった。

 

「途中まで来たけど、やっぱり無理っぽいので今日は出社せずに帰ります。」

 

「会社の前までが限界やー。今日も無理。帰ります。弁当ムダやったー。」

 

私は「承知しました、お大事にね」とだけ返信した。

 

しばらくして久々にM美さんと会社でランチをとる機会があった。

この頃、誰かれかまわずにIさんの悪口を言うM美さんにへきえきしていた派遣仲間たちは、M美さんがお弁当もって休憩室に入るのを見つけると、外に食べに行ってしまうようになっていた。その日も私とM美さんの二人でお弁当を食べることになった。

 

M美さんは心療内科を受診したらしい。病名がわかったよ、と言った。

適応障害

ここ最近の自分の行動や言動、そして会社に来るのが苦痛を伴う現象。

彼女自身も、自分はおかしくなってしまったのかと不安になり、受診を決めたそうだ。

病院に行ったということは、自覚症状があるわけだし、治したいという気持ちもあるということだ。私は安堵した。お薬で治る苦しみなら、早く治療を始めた方がいい。

 

社員なんて、1年くらいすればまた転勤でどこかへ行ってしまう。

すぐにメンバーが入れ替わる。少しの間の辛抱。

M美さんが治療で良くなって、またいっしょに笑い転げながらお弁当食べられる日が来ると、その時は思っていた。

 

しかし、M美さんはもう会社でフルタイム過ごすことはできなくなり、半日いただけでめまいや吐き気におそわれるようになったという。治療しているとはいえ、心の問題はそう簡単に治ってはくれないようだ。

そして数日続けて休んだあと、晴れやかな顔で出勤してきて、派遣仲間のいる職場をめぐり、「私今日で辞めまーす!じゃねー!」と手を振ると、質問も受け付けず去っていったそうだ。

私物をまとめ終わってエレベーターホールに向かうM美さんをやっとのことで呼び止めた。

「辞めるって?」

 

「うん。辞めることに決まったわ。お世話になりました!」

 

そう言うとM美さんはエレベータに向かった。一刻も早く会社から出たい、ということらしい。

ただ会社から出さえすれば、体調が悪いということもなく、家では子供たちと元気に遊んでいるという。ごはんとかは全然大丈夫なので、また行こうね!と言って、彼女は今度は本当にエレベータに乗って、降りて行ってしまった。

その時以来、M美さんとは会っていない。

しかし、一度だけメールで連絡がきた。

 

「例のコーヒーカップ、職場の棚に戻しておきました。丸一日、漂白剤つけたけどね(笑)。いろいろお騒がせ、すみませんでしたー!」

 

彼女らしい絵文字の多い文面だった。少しは元気がでてきたようだ。

例のコーヒーカップは、再三注意されたので、そのままにもできず、M美さんが給湯室からは撤去させていた。ゴム手袋をしてカップをごみ用のポリ袋でぐるぐる巻きにし、倉庫の片隅に置いておいたらしい。

その後どうするつもりなのか気にはなっていたが、辞める前にもう一度洗って、食器棚に戻しておいたようだ。その時には、もう辞めることを決めていたのだろう。

 

M美さんが辞めてしまったことは非常に残念に思ったが、全面的に彼女の肩を持つというわけではない。NさんやIさんのことは、だいたいがM美さんからしか聞いていない情報なので、どこまでが真実なのかはわからないし、心身にダメージを受けたM美さんには心底同情するが、そうなった原因はM美さん側にもあると思っている。酷な言い方かもしれないが。

 

Nさんへの気持ちが悪いと言っているのではない。既婚者であっても、異性に惹かれることはある。社内で密かに思いを寄せる人がいたって、そのくらいは別に自由でいいだろう。

NさんがどういうつもりでM美さんに接していたのかはよくわからない。M美さんの気持ちを知っていながら、有能な彼女を利用した、とも思える。M美さんをその気にさせるような態度をとっていたのかもしれない。でもそんな男はたくさんいる。

だからこそ、私たちは気を付けなければいけないのだ。M美さんもわかっていたはず。

純粋にNさんとの恋愛を楽しむつもりなら、仕事をからめるべきではなかった。仕事は仕事、と割り切ってほしかった。これだけしたんだから見返りがあるはず、なんて思うことは正しいとは思えない。私たちは仕事に見返りを求めてはいけないのでは?期待なんて無意味だ。私たちがいただけるのは、時間給だけ。

ましてや社員と張り合おうとするなんて。勝てると思うなんて。

 

会社からすれば、同じ社員のIさんに対して、できる限りの配慮をしただけだと思う。上司にはIさんの復職を根付かせる責任があるだろうし、同僚の社員たちも同じ会社の社員として当然Iさんをサポートする。社員を差し置いて派遣社員を優位に扱うなんてあろうわけがない。M美さん、わかっていたはずだ。頭のいいあなたなら。

 

M美さんがいなくなってからしばらくして、彼女の代わりに新しい派遣さんが入ってきた。毎日きちっと拭き掃除をし、来客にお茶をだし、湯飲み茶わんをきれいに洗って食器棚に整頓して置いている。Iさんがコーヒーを出すこともなくなったようだ。

 

ある日、女子トイレでIさんとたまたまあった時、M美さんのことを聞かれた。

彼女どうしてるの?って。私は連絡とってないので、と答えた。

辞めた理由について何か聞いているかとも聞かれた。私は、はっきりとは聞いてないんですけどね…と含みをもった言い方をわざとしてしまった。少し意地悪だっただろうか。

Iさんは、M美さんが自分のせいで辞めたのかどうか気になっているのだ。それを気にするということは、何かしらの心当たりがあるということなのだろう。

 

ほんとは同じ人間なんだ、みんな。社員とか派遣とかの前にね。

みんな不安で、つい自分の持ち札を確認してしまう。

どっちが優位か。自分の武器は何か。

仕事の能力だって不確かなもので、あの社員とあの派遣社員との違いは、正直、背負ってる会社の看板だけ、だったりすることもある。でもそれが大事なんだろうね。

 

 

派遣社員は、社員とは違うからこそ、職場の中でも自分の聖域で仕事ができる、と私は思っている。「ラインが違う」、「チャンネルが違う」、そんなふうに表現する人もいる。

現場によって違いはあるだろうけど、多くの事務系派遣社員が受け持つのは、誰でもできるようルーティン化された、システム化された、範囲の決まったお仕事。

 

そうでなくてはおかしいでしょう。入社試験も受けていない人間を社内に入れて仕事まかせるんだから、普通の社員さんと同じ仕事ってことはないでしょう。専門職の人なら話は別だけど。

それでも、いい加減に無責任にやるってことはないし、決められた範囲内の業務をきっちりこなしていくのが派遣道だと思っている(ちょっとえらそう…)。

もちろん派遣社員としての評価、期待される成果はあるだろうけれど、それは社員さんのものとはまったく違う別次元のものだ。

 

派遣と社員との間の見えないけれど、太く、広く、そして深~い一線。

私はそれを越えないように、線の向こう側をときおり眺めながらも、けっして踏まないように気を付けて歩いている。

 

 

【契約満了まであと 400日】